ウラジオストク(太平洋艦隊編、その2)
太平洋艦隊博物館のゲートの先は、階段になっている。
降りると、大砲や、小型潜水艇(だろうか)が、博物館をぐるりと取り囲むように展示してある。いきなり大迫力である。
ほう立派な、と眺めていると、厳しい表情の長身の老人が近づいてきた。
もしや休館日か、と身構えつつ「ズトラーストビチェ」と挨拶すると、“Chinese? Korean?”と聞いてくる。「ジャパニーズ」と答えると、少し考えた後に、「コニチワ、アリガートウ」と言って自慢げである。よく見ると目の端に微笑らしきものが浮かんでいる。
丁寧に博物館の入口まで案内し、”Enjoy!”と言って去っていった。
怖い人かと思ったら普通にいい人。もはやお馴染みのパターンである。顔が怖いだけに、親切にされるとやたらと感激する。
それにしても、ロシアのオッサンというのは、なぜ皆あんなに顔が怖いのか。子供は紅顔の美少年、若者は白皙の美青年なのに(白人だから当たり前)、それより年を取ると、いきなりロシアンマフィアである。中間がいない。美青年とロシアンマフィアの間がミッシングリンク。
さて。
入口の重い扉を開けると、中にいた警備員のオッサンが上を指さし「セカンドフロア」と言う。
言われるがままに階段を上ると、チケット売り場らしき場所には人がいない。あたりをぐるりと回っても見つからないので、再び降りて先ほどのオッサンに聞いてみることにした。
ロシア語ができないので、Google翻訳のお出ましである。
「チケットを買いたいのですが、売り場に誰もいません」
スマホをオッサンに見せると、少し考えて、別のオッサンBを連れてきた。オッサンBは何やら陽気な雰囲気である。
オッサンBに連れられて2階に上がると、チケット売り場をスルーして展示室に入り、ここを見てろと言う。チケットはいらないのか、と聞いても展示の説明をするだけで、全く会話が噛み合わない。
説明といっても、私が全くロシア語を解さないので、写真を指さしては「これは誰」などと言うだけである。ノーリアクションも申し訳ないので、説明を受けるたびに、言われた名前を復唱しておいた。すると、オッサンBは「そうだ」と言わんばかりに真剣に頷く。親切な人なのは間違いない。
そのうち、日本のどこから来た、と聞くので、(神奈川と言ってもわからんだろう)と、「ヨコハマ」と答える。するとオッサンB、「カナガーワ!」と返してくる。まさかの返答。なかなかやり手である。
そんなやりとりを数分続けて、「とにかくここを見てろ」と言ってオッサンBは去っていった。
一人になり、目的の日露戦争の展示をじっくり見る。
海戦図だとか、プロパガンダポスターと思しき日本艦隊がボッコボコにやられてる絵など、説明文は読めないものの、なかなか面白い。
東郷平八郎や戦艦三笠の写真は見つけたが、クニャージ・スヴォーロフの写真は見つけられなかった。ないはずはないので、おそらく見落としたのだろう。
日露戦争の展示を見終わると満足しつつ、隣接した第一次世界大戦の展示室に入った。
フーン、と見ていると、先ほどのオッサンBと、アジア人女性が入ってきた。彼女はロシア語が堪能なようだ。見るからに日本人らしき風貌だったが、果たしてそうであった。
親切なオッサンBは、私を呼ぶと、彼女にジャパニーズ、カナガーワと紹介した。同様に、彼女はジャパニーズ、ヒロシーマとのことであった。しばし日本人的曖昧スマイルで挨拶。
その後、チケットを買えたか彼女に聞いてみたが、やはり「展示の説明ばかりされて全然答えてくれない」らしい。
ロシア語のできる彼女ですら、その有様であれば、何か複雑な事情があるのだろう。
彼女にロシア語が通じるのが嬉しいらしく、オッサンBはかなり熱心に説明している。一瞬、混ぜてもらって彼女に通訳してもらおうかとも思ったが、若干腹も減ってきたので、一人で第一次大戦の展示を後にした。
そのまま第二次世界大戦の展示室に入ろうとして、チケット売り場に老婆がいることに気づいた。(もしや、単にチケット係が遅刻してただけではあるまいな。)
上品な雰囲気の老婆に100ルーブル払い、これで一安心である。
それにしても、ロシアのお年寄りは元気である。
不勉強なもので、第二次世界大戦でロシア海軍というのがいまいちピンと来ていなかったのだが、展示を見てもよくわからなかった。
しかし、ドイツが嫌いなことだけはよくわかった。
先の大戦の展示を見終わると、3階に上がり、「現代のロシア海軍と世界との交流」のような展示を見る。
我らが海自の制服や、なぜか兜が展示されていると思ったら、アフリカの民芸品や、北朝鮮の壺だの金日成の肖像画だの、何やらカオスな展示である。
他に、ロシアの現代の潜水服?のような展示もあったが、よくわからなかった。
最後がやや消化不良ではあったが(私が無知なことも原因だろうが)、存分に堪能して博物館を後にした。
なかなか興味深い博物館であった。説明やレイアウトなど、丁寧に人の手で作り込んだ感じがする。
もう少しロシアの歴史を勉強してから再訪したい。
パーティーロック編に続く。
おまけ。
展示してあったロシア領土の地図。
国後択捉がバッチリ入ってますぞ!
ウラジオストク(太平洋艦隊編、その1)
ウラジオストクといえば、太平洋艦隊である。
最近、私の中で日露戦争モノが熱いのだが、バルチック艦隊こと第二、第三太平洋艦隊が、遠き西の果てからドンブラコと向かった先もウラジオストクであった。
不幸なことに(我々日本人にとっては幸運なことだが)、ウラジオストクに辿り着く前に、彼らは、天気晴朗ナレドモ波高キ日本海で撃滅されてしまった。
ちなみに、日露戦争における私のヒーローは児玉源太郎である。(陸軍じゃん。)
そんな訳で、私が今回のウラジオストク旅行において最も楽しみにしていたのは、「太平洋艦隊博物館」であった。
この太平洋艦隊博物館は、今回宿泊したヴェルサイユホテルから離れたところにある。
歩けない距離ではないが、小銭もゴッソリたまってきたことであるし(オツリがいちいち細かいのだ、10ルーブルの釣銭を2ルーブルコイン5枚で渡してきたりする)、路線バスに乗ってみるのもまた一興であろう。
31番のバスに乗れば着くらしい。とりあえずホテル近くのバス停で待っていると、それほど待たずに目的のバスがやってきた。
前のドアからバスに乗り込み、21ルーブルを支払う。
支払うといっても、「さあ払いますよ」とジェスチャーしながら、運転席の横にある台に小銭を並べただけである。これが正しいかは知らないが、他にも多くの小銭が置いてあったから、間違いでもないのだろう。
信号で止まると、運転手は台から小銭を回収して、チャッチャッと音を立てて数えていた。
ウラジオストク駅に着くと、バスは停車したまま動く様子がない。乗客も皆降りてしまった。どうやらここが終着らしい。
しかし、終着ということは始発でもある。このまま待っていればいつかは発車するだろう。
ノンビリ構えていると、突然眼光鋭いオッサンが乗り込んできて、大声で運転手に何やら絡み始めた。
運転手も何やら怒鳴り返し、喧嘩のような雰囲気である。これはマズい。
オッサンの服は薄汚く、痩せこけている。まだ午前中なのに既に酔っているのか、呂律が回っていない。関わると面倒臭そうである。目を合わせないように、「私は空気」オーラを身にまとう。
しかし、オッサンは私に気づくと、近づいてきて早口で何やら怒鳴ってきた。なんとなく降りろと言っている気がする。(第六感である。)
「降りろってこと?」外を指して日本語で聞くと「ダー」と言う。何がダーなのか知らないが、仕方なくオッサンと一緒にバスを降りる。
駅で降りたところでどうしようもない。私は太平洋艦隊博物館に行きたいのだ。クニャージ・スヴォーロフの写真が見たいのだ。
ふとオッサンを見ると、運転手と談笑しながら、外でタバコを吸い始めている。
ここで気づいた。これはロシアあるある「怒鳴られたと思ったら、普通に話しているだけだった」なのだろう。
よく見ると、何かの障がいがあるようで、動きがぎこちない。呂律が回っていないのも、きっとそのせいであろう。案外いいやつかもしれぬ。
試しにオッサンに、地図を指さし「ヤハチューパイチー(I want to goの意)」と話しかけてみると、別の31番バス(!)の前まで連れて行ってくれた。さらに一緒にバスに乗り込むと、運転手に「この人を頼むよ」と話をつけてくれたようだ。(完全に第六感である。)
去りゆくオッサンにスパシーバ連呼。
ポケットから新たに21ルーブルを取り出して台に並べ、ここで得意の「ヤハチューパイチー(地図を指さし)」を運転手に繰り出す。
運転手は、パリッとアイロンのかかった清潔なシャツを着た知的な中年紳士である。ややダニエル・クレイグ似。
地図を見てもピンと来ていない様子なので「ここがヴラジヴォストークバグザール、ヤハチューパイチー、ここ」などと日露チャンポンで話すと、片頬あたりに「わかったぜ」という表情が浮かんだ(気がした)ので、席に座り、バスの発車を待つことにした。
エンジンがかかり、いよいよ発車となった時、先ほどのオッサンが再び乗り込んできて、私の後ろの席に座った。
私の肩をコツコツ叩き、「降りる時教えてやるからな」と言っている。(もちろん第六感である)
走り出したバスは、まもなく中央広場に停車した。要人でも来るのか、何かイベントがあるのか、警備員がたくさん集まっている。
後ろのオッサンは窓を開け、身を乗り出して、警備員に何やら怒鳴っている。バスが動き出しても、腕を伸ばして警備員の肩をパシーンと叩いたりしていた。
ふと、バスが規定のルートを逸れていることに気づいた。要人訪問だがイベントだかのせいで通行止めになっているのだろう、大きく迂回して、太平洋艦隊博物館から少し離れた場所にバスは停車した。
後ろのオッサンと運転手から同時に「ここで降りるんだ」と教えてもらい(第六感)、なぜか合掌しながらスパシーバを連呼して、バスを降りた。
Googleマップを見ながら太平洋艦隊博物館まで歩く。
中央広場からは離れているのに、ここにも警備員が何人かおり、車も全く走っていない。
これから何が始まるのだろうか。面倒なことにならなければ良いが。
少しだけ不安を抱きながら、博物館の門をくぐった。
その2に続く。
ウラジオストク(兵隊さんスペシャル)
ロシアといえば、世間はサッカーW杯で賑わっているが、空気を読まずにウラジオストクの話題を続行する次第である。
ウラジオストクは、言わずと知れたロシアの重要軍港である。以前は閉鎖都市で、外国人が立ち入ることはできなかったらしい。
ここで我らがGoogleマップでウラジオストク港を見てみよう。ここに砲台を置き、ここに虎の子の戦艦を温存して、と考えると、素人目にも良い軍事拠点なのがよくわかる。
そんなわけで、ここウラジオストクには、ミリオタの皆様が涎を垂らして吼えるであろうスポットがテンコ盛り盛りなのである。通りを歩けば砲弾に当たる勢い。
それだけでなく、街中で、セーラー服の水兵さんが、ピロシキをモグモグ食べながら歩いていたり、陸軍の巨大なトラックが爆走していたりする。まさしく軍事都市である。
(ちなみに、ピロシキは立地から考えると、「ピラジョーチニッツァ」のピロシキであったと思われる。美味!)
私は全くミリオタではないけれども、まあせっかくなので、軍事関係の博物館に色々行ってみた。
まずは、要塞博物館。
海岸通りの水族館「オケアナリウム」の隣にある階段の上に入口がある(わかりづらい)。
200ルーブル。薬中みたいな怖めのオニーサンがチケットを売っていた。
張り切って開館直前に行ったら、既に10人くらいの中国人が並んでいた。
ゲートが開くと、私の前に並んでいた中国人たちはワラワラとなだれ込み、入口付近に飾られた砲台だの、潜水艦から取り外した艦砲(多分)だのを取り囲んで一斉に自撮りを開始した。
その後、ろくに展示も見ずに、嵐のように立ち去って行った。
まあ、本人たちは満足そうなので、何よりである。(中国人のこういう、色々割り切ったところは嫌いじゃない。)
ここには他にも、移動式砲台、戦車、魚雷、機雷などの兵器から、要塞の模型や当時の道具類などがあり、(ちゃんと見れば)しっかりと見応えのある博物館である。
機雷ってこんなに大きかったのか!と驚いた。
要塞の屋根によじ登ることもできる。(少なくとも注意はされなかった。)
なお、要塞博物館を降りたところにこじんまりとした遊園地がある。
帰りに横を通りかかると、テレサテンの「愛人」がBGMで流れていた。その次に流れてきたのはポール・モーリアの「サバの女王」。
尽くしても泣き濡れても、ロシアではテレサテンもイージーリスニングであるらしい。
アジアの歌姫の物悲しいメロディに吸い寄せられるように、中年のアジア人グループが次々に入っていったのが印象的であった。
お次は、S-56潜水艦。
S-56、ロシア風に書けばС-56は、ソ連時代に活躍した潜水艦で、Wiki先生によるとソ連とドイツがアレコレ画策して作ったソレらしい。
そんなS-56が今や道路沿いに鎮座。中は博物館になっている。
100ルーブルを入口のおばあちゃんに渡して中に入ると、軍人さんの写真や制服、細々とした小物などが、所狭しと飾ってある。
ロシア語がわからないのであくまで勘だが、これらは歴代艦長さんの写真と、ご本人の制服なのだと思う。
ここに限らず、ロシアの博物館はモスクワとウラジオストクとでけっこう行ったけれど、どこも「よくこんなの残してたね」というものが、丁寧に展示されてあった。特に洋服の類が、大変良い状態で大量に保管されてあるのである。
共産主義というのは、ものを大事にするのだな。
制服の展示だけかと思いきや、急に隔壁が現れた。
この隔壁を超えたスペースには、魚雷の模型がギッシリと積まれており、なかなかにギョッとした。私だったら、こんな物騒なものと一緒に海の底でジッとしているのなど御免である。
そういうおっかないものを、ドンパチ打ったり打たれたりするのが、戦争というものなのであろう。
魚雷を過ぎると出口はすぐ。潜水艦と何の関係もない、ロシア土産が売っているのがなんとも平和であった。
そういえば、潜水艦の周りで伝統衣装のスラブ美女がたむろしていたけれども、写真撮ったら金をせびられたのかもしれない。
S-56潜水艦の上には、戦死者の慰霊碑のようなものがある。
ロシアあるある、同名が非常に多い。
しかし、名前は同じでも、それぞれはかけがえのない一人。ものを言わぬ慰霊碑から受ける印象は重い。
慰霊碑の近くには、砲台が「1941」「1945」と彫られた台座の上に飾ってあった。
1941は独ソ戦関係、1945は対日戦関係だと思われる。
これが1945の砲台。碑文によると、「日本帝国主義との戦いに参加した赤軍の駆逐艦「ヴォイコフ」の砲台」とのことである。(Google翻訳を意訳)
潜水艦の向かいには、クラーヌイ・ヴィムベル軍艦がある。
50ルーブル払えばデッキに上がることができるが、混雑していたので億劫になり、タダで入れる部分だけ見て立ち去った。
太平洋艦隊編に続く。
ウラジオストク(タクシー編)
空港で、ATMやらSIMカードやら、色々と準備を整えると、だいたい18時過ぎ。
日本でバスの時刻表を確かめてきたから、ちょうど市街地へ向かうバスが出たばかりであることは知っている。Buses | Международный аэропорт Владивосток
それでも、空港の外に出てバス停に向かって歩いてみる。
空は広く明るく、淡く澄んでいる。思ったよりも寒くない。
掲示された時刻表を見ると、案の定、次のバスまではかなり時間がある。
「残念、バスが行ってしまった」と白々しく一人呟き、予定通りタクシーカウンターに向かう。
特に意味はない。強いて言うならば、旅行者プレイである。
タクシーカウンターは空港の中にある。再び入るには手荷物検査と金属探知機の列に並ばなければならない。
下らない一人遊びの代償に舌を打ちつつ、これも旅の醍醐味である。わざわざウラジオストクで、無為なことをする。
タクシーカウンターには、不機嫌そうな、化粧の濃い、メリル・ストリープ似の女性がいて、無愛想にスマホでタクシーを手配してくれた。若い頃は美人だっただろう。
料金は先払い。1,500ルーブル。
クレジットカードで支払い、「メリル」の言葉を待っていると、焦茶色の古いジャケットにハンチング帽の、風刺画の労働者然としたオッサンがカウンターに来て、何やら大声で怒鳴っている。いかにも関わったら面倒臭そうな輩である。
目を合わせないようにしていると、オッサンを冷たくあしらったメリルがピシャリと言う。
"He’s your driver. “
オズオズとオッサンを見やると、人懐こくニコニコしている。
“Chinese? Korean?”と聞くので「ジャパニーズ、ヤポーンカ」と答えると、さらにニコニコして「ダイジョーブネ!」と日本語で答えてくれる。
いい人っぽい。
(車内で聞いたところによると、昔、中古車輸入の仕事でよく日本の富山、新潟に行っていたそうだ)
ウェイトヒア、ダイジョーブネ、などと言い、5分ほど待たされ(きっとトイレだろう)、車の前に連れていかれると、グレーのセダンである。タクシーには見えない、普通のロシア車である。
(後で調べたところ、ロシアのUAZというメーカーのようだ)
煙草吸うから1分待ってね、などと自由なことを言い、私を車内で3分ほど待たせ、準備万端整ったオッサンドライバーは景気良くエンジンをふかして空港を後にした。
途中、「アムールタイガーの銅像」だの「日本車メーカーのディーラー」だの、ローカル感溢れる名所をカタコトの英語で説明してくれた。
埃っぽい高速道路を縦横無尽に駆け抜け(周りの車が2.5列程度で走行しているので、車線が決まっていないのかとよく見ると、単にラインが消えかけているだけで、片側二車線だった。ロシアン自由)、市街地に差し掛かると、オッサンは「シートが取れるか見てくるよ」などと意味不明なことを言って、クネクネの裏道に入り出した。
ちょうど渋滞が始まっていたから、抜け道か?と思ったら、見晴らしの良い高台で車を止め、ここで降りろと言う。
鷹の巣展望台だった。正確には、展望台に向かう路上なのだろうか。
ウラジオストクの名所の一つである。夕暮れの金角湾にかかる橋が美しい。
冷えてきた空気の中で、ゴールデンブリッジ、と目を細めて煙草を吸う、ドライバーのオッサン。
写真では伝わらないだろうが、旅情をそそる風景ではある。
辺りには車がびっしりと停まっていて、自撮りをするアジア人女性が大勢いた。
先のシート云々は、場所が取れるかどうか、という意味だったのだろう。
オッサンが煙草一本吸い終わるまで、存分に景色を楽しみ、車に乗り込んだ。
坂を下りながら「帰国の飛行機はいつ?ルースキー島にドライブしつつ、空港まで送るよ。2000ルーブルでいいよ」となかなか素敵なオファーをされるも、ライト乗り鉄的にはアエロエクスプレスにどうしても乗りたかったので、丁重に断った。(結局乗れなかったけれども!)
そこからいくつかのごみごみした通りを抜け、びっしりと縦列駐車が並ぶ坂を登ると、わがヴェルサイユホテルであった。
重厚な木の二重扉を開けてフロントに向かい、チェックイン。フロントには、悲しげな目をした痩せ型の女性が立っていた。
カウンターがやたらと高いのは防犯用なのだろうか。
クラシックな鍵をガチャリと音を立てて開けると、部屋は真っ赤であった。
レーニンも真っ青の赤さ、と呟き、一人満足する。
部屋には、この椅子と机と、古めかしいテレビとナショナルの冷蔵庫(!)、シングルベッドがあるのみ。
がらんと殺風景な部屋だが、実際はとても居心地が良かった。
「異国の古いホテルに滞在しているのだ」と思うと、妙に盛り上がるものがある。
荷物を置き、一息つくと、とにかく空腹であった。
向かいのスタローヴァヤ「MINUT」で夕食を済ませ(美味しくなかった)、隣の食料品店でロシアビールを買い(103ルーブル、カードがなかなか読み込めなかった)、部屋でダラダラ飲みつつ、不安と興奮の初日は終了した。
やはりロシアはたまらんな!!
続く。多分まだまだ終わらない。飽きなければ。
ウラジオストク(出発〜ウラジオストク到着編)
5月24日。やらなければ、と思いながら延ばし延ばしにしていたら、あっという間に出発日前日になってしまった。
ほぼ徹夜で準備をして、ややハイな気持ちで成田行きの横須賀線に乗った。
NEXやスカイライナーなぞ使わない。せっかくの休日なのだ、のんびり行こうではないか。
と、思ったそばから、やや飽きつつ。
成田空港に着き、成田空港第一ターミナル北ウイングへ。
オーロラ航空のカウンタースタッフは、テキパキと手際が良く、非常に好感が持てる。
チェックイン後、手荷物検査をすんなりパスし、自動化ゲートを抜けると、思ったよりも時間が余ってしまった。
ぼんやりと時間を潰し、バスで飛行機の前まで。
タラップで飛行機に乗り込むと、今から旅に出るのだぞ、いう感じがする。
だから、往路に関しては、バスでドナドナされる方が好きである。
ボーディングブリッジは、なんというか色気がない。出発ロビーから乗り込み、ブーンと飛んで、到着ロビーに降りる。まるで3分クッキングだ。
さて、5月25日14時05分、我らがオーロラ航空3639便は、成田空港を定刻で出発した。
きちんと比較した訳ではないが、ロシアの航空会社は、離陸後、車輪をしまうのがやたらに早い気がする。
フワッと浮かぶ、と同時に格納してしまう。以前乗ったアエロフロートも早かった。
(なお、帰りのS7航空も早かった。)
この辺りが空軍上がり、というやつなのか。
アエロフロートといえば、以前、機内サービスのリンゴジュースがやたらにうまかったので、今回もリンゴジュースをいただいた。
やはり美味。しっかりと酸味があり、締まった香りがする。
人気があるらしく、まばらにしか客が乗っていないのに、すぐに新しいパックが開けられていた。
リンゴジュースを堪能し、持ち込んだ本を読んでいたら、2時間55分のフライトはあっという間。
ダーチャに衝撃を受けつつ、飛行機は、やや強引にウラジオストク国際空港に着陸した。
ウラジオストク航空は、がらんとしていて、ロシア軍の輸送機だろうか、飾り気のないジェット機がいくつか並んでいた。
タラップを降り、バスに乗り込む。
空港ビルに近づくと、どこかから「・・・松山空港やな」と聞こえてきた。
確かに松山空港に似ていなくもない。というか、地方の空港なんてまあ似たり寄ったりなのであろう。
何しろ乗客が少ないので、入国審査も荷物引き取りもスムーズで、少し拍子抜けしつつ、ATMを探す。
すぐにATMコーナーは見つかったが、ロシア語表記しかなかったり、カードを認識しなかったり、3機ほど試してやっと5,000ルーブル(8,500〜9,000円程度)を引き出せた。
この時、うっかり一度に引き出してしまったため、5,000ルーブル札が出てきてしまった。
高額紙幣は使いづらい。何度かに分けるべきであった。
タクシー編に続く。
おまけ
飛行機から見たロシアの森。
多分ヒグマいっぱい。アムールタイガーもいるかもしれない。
見渡す限り人里のない森に、一筋の道路。
見てるだけで不安に駆られるのは私だけではあるまい。
ウラジオストク(ダーチャ)
ダーチャとは、Wikipedia先生のお言葉をお借りすると、以下のようなものであるらしい。
ダーチャ(ロシア語: дачаダーチャ、英語: Dacha)は、ロシア・旧ソ連圏で一般的な菜園付きセカンドハウスである。
詳しくは知らないけど、夏にはダーチャで野菜を作って過ごすらしい、とか、旧ソ連時代に広がったらしい、とか、そんな断片的な物事だけは聞いたことがあって、「自給自足で丁寧な暮らしをダーチャで」といった、雑なイメージを持っていた。
が、しかし、である。
成田からのフライトで、まもなくウラジオストクに到着しようかという時に現れた、畑つきの家々。
多分ダーチャ。一面に、すげえいっぱいある。
そして、恐らく今から種まきなのだろう、どの畑も綺麗に耕され、整えられていて、荒れた畑はないように見えた。
ガイドブックによるとウラジオストクの人口が約60万人、ざっくり1〜2万世帯くらいでしょう?それに対してこのダーチャの数。けっこうな所有率なのでは・・・。
(後で調べたら、正確な数字は見つからなかったものの、6割とか8割とか、かなりの所有率だった。)
「ナチュラルでロハスな生活」とか「手作りのジャムで丁寧な暮らし」とか、そういうファッション農業じゃなくて、本気で食糧自給自足してたのねプラスチーチェ。
そういえば、ウラジオストクに着いてから、3つくらいスーパーマーケットを回ったけど、野菜はほとんど売ってなかった。せいぜいリンゴと青菜くらい。
ロシア人にとって、野菜はダーチャで作るもの、なんだろうか。
ああ、この衝撃をどう伝えたものか。
子どもの頃、ニュースで「棚に何もないロシアのスーパーマーケット」を見て、私は恐怖を感じたのだ。
普通の日本のサラリーマン家庭で育った私には、それ即ち飢えを意味するように思えた。
ロシアくらい進んだ国でも、こんなことがありえるの、と。
しかし、実際はダーチャの作物でなんとかなっていたのではないか。
ロシア家庭のサバイバル力って、恐ろしく高いのでは。
いつかロシアの人と話すことがあったら、ダーチャについて聞いてみたい。
ウラジオストク(ロシア語編)
ウラジオストクでは、思ったより英語が通じた。と言っても、若い人や接客業の人は通じるという程度で、年配の人はほとんど通じないようだ。
当然ながら、看板などは全てキリル文字で、英語表記もほとんどなかった。
(そんなこともあろうかと、出発前にキリル文字を読めるようにして行ったので、駅や店を探すのには困らなかった。)
会話は、以下の簡単な言葉と、指差しと、Google翻訳で乗り切った。
「ズドラーストビチェ(Hello)」
「パジャールスタ(Excuse me/please/you're welcomeが、なんとこの一語で!)」
「スパシーバ(Thank you)」
「ダスビダーニャ(Goodbye)」
「ダーイチェパジャールスタ(please give me)」
「ヤハチューパイチー(I want to go、紙の地図を指差して)」
まあ、それで少なくともこちらの要求は伝わるし、問答無用でロシア語で返されてポカンとしたりするけれども、ジェスチャーとかを見つつ、半分勘に頼り、バス乗って博物館行って買い物して食事するくらいはできた。
つうか、日本でもそれくらいしか話してないしな。十分であろう。
そういえば、Google翻訳のインスタント翻訳機能は博物館でとても役立った。
何しろほとんど英語表記がないので、ロシア語を知らずに博物館をちゃんと楽しみたければ、インスタント機能は必須であろう。(一応カメラ禁止でないところでのみ使用した。)
ロシア語ー日本語ではその機能が使えないようで、ロシア語ー英語で使った。
ウラジオストクの人々は、困ってそうな人にわざわざ自分から声をかけたりはしないけど、声をかけられたら、できる範囲できっちり相手にしてくれる印象である。
日本で一般に考えられている程冷たくないし、かといって感激する程親切でもない。普通に普通だ。
なんというか、人々の心の温度は、同じ人間同士、どこでもそう変わらないのだろう。
ちなみに、できない場合は素っ気なくニェット(No)と言われる。そう言われたら「これが本場のニェットか!」と喜ぶしかない。