私の黒(光りする生き物の)歴史
本日は、紳士諸君が大好きなアイツについてお話ししたいと思う。
黒くて偏平で、ギラギラしていて、ピンと伸びた触角がチャームポイントのアイツである。
名前を書くのもおぞましいが、強いて言うならGKBRだ。つまりはコックのローチだ。
淑女の皆さんはもしかしたらお嫌いかもしれない。
賢明な諸君は当然ご存じのことだと思うが、やつらは飛翔はできない。できるのは滑空だけ。
高いところから飛び降りて、グライダーのように進んでいく、ただそれだけ。自ら飛び上がることはできないのだ。
そんなわけで、やつらが地面を這い回っている分には、恐れることは何もない。
怖いのは、こちらの目線の上にいる場合である。
高いところによじ登り、じっと身を伏せていたかと思うと、急に滑空する。
そして、なぜか必ずこちらに向かってくる。
なんという恐怖。もうみんな残らず火星にでも移住してください。
さて、ここで突然私の恋バナが始まる。タイトル通りの黒歴史である。
大学生時代、多忙な男の子と付き合っていた。
彼はバイトに部活にとても忙しく、なかなか会える時間がなかった。
たまに私の家に来て、ごはんを食べて、用事が済むと帰って行く。彼の部屋に会いに行こうとすると、素っ気なくかわされてしまう。
当然、浮気でもしてるのだろうと思っていた。もしかしたら私の方が浮気相手なのかもしれない。
それでも当時は「健気で一途なワタクシ」「甲斐甲斐しくごはんを作って待っているワタクシ」に酔っていたので、それなりに満足していた。
そんなある日、訳あって自分の部屋に戻れなくなった。一言で言えば、近所に出没する変質者に目をつけられたのである。
仕方なしに、彼の家に押しかけ、身を寄せることにした。
浮気か何か、証拠でも見つけてやろうという気持ちも多少あったかもしれない。
しかし、私が彼の家で見たものは、誰かの長い髪の毛でも、不審な化粧水でもなかった。
そこには、大量のゴミと大量のやつらがいた。あの、例の黒光りする仲間たちである。
1DKの汚部屋に、少なく見積もっても100匹くらいはいたであろう。
やつらは床をトロトロと歩いたり、触覚をヒクヒクさせたり、壁によじ登って滑空したりしていた。
多勢の余裕だろうか、優雅なものである。
しかし、他に行くあてなどない。
その時、私の中で何かが音を立てて壊れた。
とりあえず、床にいるものからゴキジェットで手当たり次第殺した。
(ゴキジェットがあるくせに、なんで使わなかったんだろうな、あの男は)
そのうち、薬剤を噴射するより、缶の底で潰した方が確実で早いことを学んだ。
最初は気持ちが悪かったが、そのうち何も感じなくなった。
地を這い回るやつらなど恐るるに足らず。ひたすらに潰した。
それからは、戦いの日々であった。
まず、片っ端からゴミを捨てて掃除しまくった。
ゴミを持ち上げると、影には必ずそれがいた。
流しの下を開けたら、ジッと休んでいたヤツと目が合った。
部屋中をひっくり返して、卵を集めて捨てた。小豆をこぼしたように卵があった。タンスの中にまで卵があった。
ゴキブリホイホイを買ってきて、部屋中に設置した。
一晩経って、そっと覗くと、5匹くらいずつ捕らわれていた。
粘着シートの上で身動きも出来ずに、触覚だけがフワフワ動いていた。やつらの静かな息づかいが聞こえるようだった。
設置したホイホイを集め、命ごと捨てるのは気が滅入った。
あまりにキリがないので、バルサンを買ってきて、彼がバイトに行っている隙に燻蒸した。
所定時間後、部屋に戻ると、トルメキア軍もろとも壊滅したペジテ市みたいになっていた。
ひっくり返って死んだ蟲たちを割り箸でつまんで袋に入れながら、玄関から部屋の奥まで進んだ。
帰ってきた彼氏に褒めてもらえるかと思ったら、「殺生は好かん」と冷たく言われた。
「生きものに優しくて素敵」と思った。
彼が部屋に呼んでくれなかったのは、少なくとも、ヒトへの浮気ではなかったのだ。満足した。
その頃の私は、確かに何かか壊れていたのだろう。どこで聞いたのだったか、こんな話を思い出した。
昔々あるところに、夫婦が仲良く暮らしていた。
ある時、夫が出かけている間に、妻が鬼にさらわれてしまった。
帰宅して妻がいないことに気づいた夫は、悲しみに暮れながら必死で探した。
やっとの思いで見つけた妻は、幸せそうに鬼のパンツを洗っていた。
それから1年くらい付き合ったが、何が原因だったか、ふいと別れてしまった。
あの哀れな捕らわれのGKBRを思い出す。
それでも私は幸せだったのだ。