京都でおいしい和食が食べたい(精進料理 阿じろ)
京都といえば、寺である。
本当は嵐山まで行くつもりだったのだが、朝寝坊したため広隆寺までしか行けなかった。
高校時代に日本史を取った人なら、広隆寺といえば「半跏思惟像シルエットクイズ」を思い出すだろう。菩薩像の頭にお団子がある方が中宮寺(奈良)の半跏思惟像で、お団子じゃない方が広隆寺の半跏思惟像である。
すっとした色気のある半跏思惟像に満足したところで、わざわざ妙心寺近くまで移動し、精進料理を食べてきた。
京夕け 善哉に引き続き、とても美味しかったので写真とともに自慢したい。
精進料理 阿じろ 本店
立派な門をくぐり、ベルを鳴らすと、どこからともなく仲居さんが現れた。靴を脱ぎ、迷路のような廊下を歩いて案内されたのは、取調室のような雰囲気の個室であった。
精進料理というと、何かストイックなもの、その結果味気なく腹が膨れないものを想像してしまうのだが、「阿じろ」の料理は全体的にしっかりとした味で、通常の和食よりも砂糖や油をガッツリ使っており、かなりの満足感がある。
快楽的に美味で「この生臭坊主」と言いたくなる(褒め言葉)。
それでは、各々の料理を説明しよう。
今回は昼6,000円のコースで、最初に梅湯と食前酒が出されるのだが、写真を撮り忘れた。
食前酒のおかげで、すっかり日本酒の口になってしまったので、2合注文。おいしかったのだが、銘柄は不明。
最初に出された料理は、イチジクを甘く煮たものに、生クリームのようなものをかけ、カリカリにローストしたアーモンドスライスを乗せたものである。
生クリームは使えないはずなので、豆乳と何か油の強いもの(白ゴマとかクルミとか)を混ぜたものではないかと思う。
アーモンドが熱々で香ばしく、洋風のデザートを思わせる味であった。
2番目は、湯葉で千切りのキクラゲと百合根を包んだもの。
本当に動物性のものを使っていないのか?と疑うほど、しっかりと濃いダシ味。甘みを感じない程度に、微量の砂糖を加えているのかもしれない。使っている食材から想像されるよりも、「食べたっていう感じ」がある。
3番目は胡麻豆腐。
おいしいはおいしいのだが、たっぷりかけられた醤油が邪魔。全てが醤油味になってしまい、胡麻豆腐好きとしては「余計なことしやがって」と、残念に思う。
4番目は八寸、上から時計回りに栗の甘露煮を小麦粉の生地で包んで揚げたもの、お茶の佃煮、ウイキョウ?の辛子和え、蒟蒻の白和えである。
白和えが甘くておいしい。栗の揚げたものは微妙。
次はそうめん、上にはミニトマトとすりおろしたオクラ。
すりおろしたオクラのトゥルトゥル感が、そうめんのチュルチュル感と相まってトゥルントゥルンでチュルンチュルンである。家でも是非真似したい。
田楽(蓮根、生麩、大根)
どれも油で揚げてあるので、腹にズシっとくる。大根はあらかじめダシ味で煮含めてあり、表面カリカリ中じゅわーのキャッチーな食感。もうひとつ食べたい。
焼き湯葉と、写真では隠れているが、下にキュウリの酢の物
キュウリは種の部分を取り除いた上で薄切りにしており、青臭さがなく上品。確かに種を取らないと、コース全体とバランスが取れない気がする。
お茶漬け
京都といえばぶぶ漬け。「ぶぶ漬けいかがどすか?」などと聞かれたわけではないので、おいしくいただいた。
湯
おこげの入ったお湯。椀の中の茶色いものがおこげ。風味付けなので、それ自体はおいしいものではない。
水物(梨とぶどう)
ぶどうは皮が剥いてある!梨の品種がよくわからない。
デザート(葛餅)と抹茶
葛餅には小豆が入っている。ふわふわトロトロ、ふた口で食べ終えてしまって、もう少し食べたい感じがした。
ところで、阿じろでは、我々が食べ終わると同時、恐ろしくピッタリのタイミングで仲居さんが食器を下げに来た。
あまりにピッタリなので、監視カメラでもあるのではないかなどと話していると、次からは少し時間を置いて下げに来るようになった。
やはり監視カメラか・・・(という妄想である)。
おまけ
帰りの新幹線では、伊勢丹で買ったお弁当をば。
和久傳の鯛ちらし。見た目ほど鯛がペラペラでなくて良い感じ。
京都でおいしい和食が食べたい(京夕け 善哉)
独身の頃、旅行だ出張だ、と何かと京都に行っていたくせに、京都でちゃんとした和食を食べたことがなかった。
理由は単純、和食に興味がなかったためである。何やら奥深い世界が広がっているのかもしれないが、自分の国の料理なんて面白くないよね、となんとなく後回しにしていた。とにかく、教養のない私にとっては和食というだけで、珍しくもないモノを尤もらしく有り難がるような面倒臭いイメージがあったのだ。
そもそも、食べることにそこまで執着がない。かといってまずいものも食べたくないので、京都では適当に鰊そばでも啜るか(まあ鰊そばも和食といえば和食なのだが)、下手をすると京都駅前のマクドナルドでイモを食んで腹を満たしていた。とりあえず腹が満たされれば満足する人間にとって、フルコースの和食は値段も敷居も高すぎる。
そんな訳で、9月頭に京都に行った時も和食のワの字も浮かばなかったのだが、夫が何やら和食の店を調べて予約を入れてくれていた。まあ不味かったら夫に全部食わせようという失礼なノリでついて行った。
店は、夜に「京夕け 善哉」と、翌日昼に精進料理「阿じろ」。
結論から言えば、非常に美味であった。西を向き、京都の料理人たちに向かって土下座をしながらこれを書いている(誇張)。京都様すみません、無形文化遺産様ごめんなさい。
そういえば、関西の食べ物は薄味で有名だし、私の経験上、京都市内はそこらでテキトーに食べても、やたら洗練されたものが出てくる。不味い店は、光の速さで淘汰されるであろう。そんな土地で出される和食が、まずいわけがないじゃないか。考えなくてもわかることだ。
というわけで、まずは「善哉」で食べたものを写真とともに自慢したい。
京夕け 善哉(よきかな)
京美人の女将が、ザックリした感じでもてなしてくれる素敵料理店。落ち着いた雰囲気で、観光客よりも地元の人が多い感じがした。
今回は10,000円のコース也。出汁味強めなのが好みである。
席に通されたら、とりあえず日本酒。
店名と同じ「善き哉あ」(福島県 名倉山酒造)を2合。
冷酒を頼むと氷でギチギチに冷やしてくれるのが心憎い。
しっかり濃く甘く、重めの味なので、後の方に頼めば良かったと思いつつ、おいしいはおいしい。ぐびぐびっと喉を潤す。
先付、山芋豆腐。上にはイクラオクラ。
葛か何かで山芋を寄せたもので、シャクシャクとした食感でサッパリといただける。すりおろしたオクラのチュルチュル感と、イクラのプチプチ感が楽しく、ペロリと食べてしまった。
八寸、左上から時計回りに、菊菜のおひたし、秋刀魚の押し寿司、熊本の新銀杏、蛸の卵、中央はきぬかつぎ。
本来は鮑がつくが、貝類が苦手のため、代わりに蛸の卵になっている。
秋刀魚の押し寿司が上品で、銀杏がパツパツとして美味。
ここで日本酒2本目。京都は伏見の金鵄正宗を2合。
繊細ですっきり、たおやめ系の味である。こっちを先に飲むのが正解であった。
椀物、「月とスッポン」
丸い玉子豆腐様のものの中に刻んだ肉が入っている。肉は、名前の通りスッポンのものだと思うのだが、何しろスッポンを食べたことがないのでわからない。
出汁が柔らかく、舌に優しい。
向付、剣先烏賊、マグロ、明石のタイのお造り。写真を撮り忘れたがタイが美味。
炊き合わせ、山科茄子と鰊
京都らしい一皿。鰊っていいよなぁ。
ここで日本酒3本目、同じく伏見の酒味有甘酸。月の桂のプライベートブランドとのこと。
メニューに焼物に合うと書かれた通り、すっきりとしているが、食事に負けない旨みの強い味。
焼物、カマスの杉板焼き
カマスに杉板の香りが移り、まことに香ばしい。添え物の茶豆がまたパリパリで酒が進む。
杉板は、ようく噛んでいただきました(冗談)。
口取、イチジクと栗の渋皮煮
すぅっと冷たい優しい甘み。渋皮煮も品のいいお味。脇役ながら、この渋皮煮をもっと食べたい、と私は思った。
止め鍋、ハモの鍋物
写真では見づらいが、山椒の実が浮いており、これがとても良い仕事をしている。薄味の汁にピリリと山椒が香り、クラシックに洒落ている。
御飯物、蛸ご飯、生麩の味噌汁、胡瓜と茄子の糠漬け
ご飯も味噌汁もおいしかったのだが、特筆すべきは糠漬け。
もともと漬物は苦手なのだが、糠漬けは野菜の味が残っていて、臭みもなく、おいしかった。おかわりまでしてしまった。
6時間だけ糠に漬けて取り出しているとのことで、コアな漬物好きには物足りないかもしれない。
水物、かき氷
10種類程度もあるトッピングの中から、好きなだけ選んで乗せることができる。
今回は麹の甘酒と、生姜飴。我ながら全く地味な組み合わせを選んだものだが、味は良い。
ちなみに、女将曰く「ウチの料理インスタ映えしないで有名なんですよ。」
シンプルで美しいと思いますがねぇ。
京都に行ったら、またぜひとも伺いたい店である。
「阿じろ」編に続く。
4Kすげえ!映画「皇帝ペンギン ただいま」レビュー
ペンギンという生きものがとても好きだ。
あの紡錘形のフォルム、白と黒のカラーリング、フリッパーのパタパタ感。もう完璧としか言いようのないデザインである。かわいい。尊い。大好き。
ペンギンがかわいくて生きるのがつらい。
そんな、正真正銘のペンギン狂としては、もちろん、映画「皇帝ペンギン ただいま」を見に行かない訳にはいかない。
そこで、公開初日にイソイソと恵比寿ガーデンシネマまで出かけていった。
まだその興奮が冷めないので、とにかく語りたい。
「皇帝ペンギン ただいま」は、2005年にアカデミー長編ドキュメンタリー賞を取った「皇帝ペンギン」の続編である。(「皇帝ペンギン」は、「童貞ペンギン」というパロディ映画まで作られた、言わずと知れた名作である。)
どちらもコウテイペンギンの過酷な子育てをテーマにしていることには変わらないのだが、前作はコウテイペンギンたちを擬人化した「ペンギン目線」の映画であったのに対し、今作は詩的なナレーションとともに「人間目線」で描かれたものである。
それ以上に差があるのは映像技術である。
とにかく映像が素晴らしい。
ペンギンたちが白い軌跡を描きながら海面を泳ぐシーンで本編が始まるのだが、空から撮影されたその映像はとても鮮やかで、始まったばかりの映画への期待感で震えた。誇張でなく、本当に身震いした。
その直後、海から氷の上に飛び乗るペンギンがアップで映し出させると、さらに興奮して涙腺が緩んだ。なんと美しい生きもの。
確かに、筋としては「コウテイペンギンモノ」のお決まりの流れであるのは否めない。予想通りのことしか起こらないのである。
しかし、想像を遥かに超えて映像が美しく、全く飽きることはなかった。むしろ、次々と映し出させる南極の絶景と健気に生きるペンギンたちから目が離せなかった。そして、ただひたすら感動し続けた。息をするのも忘れるとはこのことだろう。
映像技術の進歩は本当に素晴らしい。4K万歳。
ヒナたちのふわふわの産毛が、一本一本はっきり見える。それが風に揺れ、またヒナの動きとともに震え、手を伸ばせば触れられそうなほどの臨場感である。信じられない。
この映像の美しさが、この映画の価値だと思う。
素晴らしいのは氷の上だけではない。
深度70メートルの水中映像の幻想的なことと言ったら!
氷の下の真っ青な世界を、切り裂くようなスピードでペンギンたちが泳ぎ回る。かと思えば優雅にのんびり泳ぎ出す。
もうスバラシすぎて言葉が出マセン。
コウテイペンギンの泳ぐ姿は、南紀白浜アドベンチャーワールドで見たことはあるのだが、当然ながら水族館の小さなプールと、広くて深い南大洋とでは全く違う。
思い出してもため息が出る。
ただ、言いたいことがないでもない。
前作では、まだ卵が孵っていないはずのタイミングでヒナの頭が小さく映りこんでいたりしたが、今作でもいないはずのアデリーペンギンが画面の端に小さく映っていたりした。
しかし、そういう細かい矛盾は気にせずに、ペンギンの素晴らしさ、美しさを堪能するのが正しい姿勢だろう。ペンギンがかわいいのでオールオッケーということで。
評価は★10個。一応5個満点なのだが、ペンギンボーナスで+5である。
ちなみに、今回は字幕版で見たが、淡々とナレーションが入るだけなので、日本語吹き替え版でも構わないように思う。
むしろ、字幕に邪魔されない方がより楽しめるかもしれない。
おまけ。
公開初日ということで、先着特典がもらえた。
Instagramで大人気(らしい)のコウテイペンギンのキャラクター「ぺんた」のトートバッグである。
まあ、私も正直微妙だと思ったけど、光の速さでヤフオクに出ていたのはどうかと思うぞ。
香港、蓮香居で朝食を
香港といえば飲茶である。
むしろ飲茶以外に何をするのか。雲呑麺か、焼味か。亀苓膏に涼茶、菠蘿包も捨てがたい。って意外とあるな。いや食いもんしかないな。
まあとにかく香港に行ったので飲茶してきたぜ、という話である。
行ってきたのは「蓮香居」、香港の老舗レストラン「蓮香樓」のゲリラ姉妹店である。
(本家に無断で姉妹店を名乗り、しばらく争った後、現在では正式に姉妹店として認められているとのこと。すげえな香港)
蓮香居は、今や少なくなった(らしい)ワゴン式の飲茶店である。
店内を点心の乗ったワゴンが回ってくるので、押しの強い香港人に負けじと群がり、目当てのものをゲット、ワゴンのおばちゃんから伝票にハンコをもらうシステムである。
唐突にラジオ体操を思い出すこの感じ。
店内は混雑しているので、当然のように相席となる。今回も家族連れと、中年男性グループと相席になった。
同テーブルの人々は、互いに知り合いではないようだが、何やら世間話で盛り上がっていた。隣のテーブルの客とまで「それおいしい?」「まあまあかな」といった会話が交わされていた。
香港人は割とフランクだ。
と、家族連れの方のお母さんがこちらを見て、ニコニコと「ジャパニーズ?」と尋ねてきた。そうだと答えると、自分を指さして「香港人」という。
旅行で来たと言うと、我々を飲茶ビギナーと認識したらしい。「あれはもう冷めてるから取ってはダメ」「あれはおいしいから取って来なさい」など、親切にあれこれ教えてくれた。
(お父さんに取って来させた)おススメの点心も味見させてくれた。空気を含んだ糸状の衣に肉や野菜を包んで揚げた、紡錘形の食べもの。咸水角に似ているが、衣が餅ではなく、サクサクでとてもおいしかった。
同じものがワゴンで回ってきたので取ろうとすると、お母さんに「あれはさっき食べたから取らなくて良いわ」と止められてしまった。
このお母さん、とても世話好きな人のようで、手が汚れたらそれを拭く紙までくれた。この紙は、その家族のお父さんが何処より大量に持ってきたのだが、聞けばトイレの手拭き紙だという。
こういう「合理的」な感じは嫌いじゃない。
お母さんに勧められたり、止められなかったりして、ワゴンから取って食べたものは、以下の5つ。正式名称はわからないが、どれもとても美味であった。
- 鶏の足のごはん(米が長粒種なのが良い)
- シウマイ(味つけが素晴らしい)
- 蒸し餃子(プリプリで安定感がある)
- 鶏肉と椎茸の湯葉巻き(味がよくしみた椎茸がたまらない)
- マーラーカオ(我が人生ベストマーラーカオに決定)
なお、お母さん曰く、蓮香居では急須でなく蓋碗でお茶を飲むべきであるらしい。
この蓋碗で飲むスタイル(曰くold style)は蓮香居以外の店では提供されていないらしく、「だからみんなこの店に来るのよ!」とお母さん自慢げ。なるほど良いことを聞いた。
急須と違い、蓋碗は飲む分だけのお湯を入れるので、薄まらずに風味が良いのだという。実際、急須と蓋碗で飲み比べさせてくれたが、本当に違っていて驚いた。
ちなみに、蓋碗からお茶を注ぐのはコツが必要で、お母さんは蓋碗の縁からジョボジョボこぼしてうまくない。
代わってお父さんが見本を見せてくれた。親指、中指で蓋碗を挟み、人差し指で蓋を押さえてパッと90度傾ける。勢いが必要なようだ。
とはいえ、熱々のお茶が入っていると、蓋碗も熱く、しかも満杯だと重いので、どうしてもトロトロとしか傾けられず、ジョボジョボになる。
シロウトは急須で飲むのが無難だろうが、ペーペー香港迷としては是非マスターしたい技ではある。
帰り際、お母さんとその長女に香港観覧車を猛プッシュされた。「たった20ドルよ!ここから歩いてすぐだから、ぜひ乗りなさい、たった15分だから予定も邪魔しないわ!」
なんとなく、大阪のおばちゃんとノリが似てるな、と思った。
広東語覚えようかな。(言ってみるだけ)
カッコよすぎるジジババと至福の音楽「ブエナビスタソシアルクラブアディオス」レビュー
18年前。まだ高校生だった私は、渋いジャケットに惹かれて、1枚のCDを買った。
複雑だけど心地の良いリズム、少し哀愁を帯びた優しいボーカル。何を歌っているのかさっぱりわからなかったが、ガキの耳にも、カッコいいことだけはわかった。それから何度も繰り返し聞いた。
映画も見ようと思ったことは覚えているが、どうしただろう、結局見ていないような気がする。全然覚えていない。
その続編が先日公開されたブエナビスタソシアルクラブアディオスである。
公式ページの言葉を借りると、
あれから18年、グループによるステージでの活動に終止符を打つと決めた現メンバーが、“アディオス”世界ツアーを決行、ヴェンダース製作総指揮で最後の勇姿を収めた音楽ドキュメンタリーが完成した。(中略)苦労した子供の頃のエピソード、ミュージシャンとしての不遇時代から、大成功のあとの華々しい世界ツアーまでも追いかける。
まあ、そんな内容ではある。
だが、この文章を読んで想像したものとは少し違った気がする。何かしらを深く掘り下げたドキュメンタリーを期待して観ると失望するかもしれない。色々詰め込みすぎて内容がとっ散らかっているし、その割に人物描写が物足りないような印象を受けた。
が、しかし。そういうものは、この映画においては枝葉だろう。
とにかく渋いジジイとイカしたババアにシビれ、熱く美しい音楽に聴き惚れていればよろしい。すげえかっけーから、能書き垂れてないで聞いてみな、Don’t think, feel. そういうやつ。それで十分。以上!
とはいえ、それだけではあまりに雑なので、印象に残ったことを少し書こう。
まず、彼らが、まるで息を吸うように音楽を奏でていたこと。それがとても心地良かったこと。
ヴォーカルのオマーラが「歌うことは生きること」と言い、ギターのエリアデスが「体に音楽が流れている」と言うように、演奏技術や表現力といったものではなく、体に染みついて、溢れ出てきたものをそのまま演奏しているのだろう。バンドが楽しそうな時は私も楽しい気持ちになったし、オマーラが悲しみながら歌うシーンでは涙がこぼれた。キューバという土地のせいなのか、長年の経験のなせる技なのか。
また、彼らのCDが世界的に売れて、成功を収めていく下りも、サクセスストーリーという感じがゼロであることも印象に残った。
何しろメンバーのほとんどが老齢で、杖なしでは歩くこともままならないメンバーすらいる。ツアーにバンド付の医者(!)が帯同し、ステージ前に血圧を測ったり、注射を打ったり。
若者のように「成功したぜイェー!」と、ただ前進すれば良いというものではない。どんなに有名になっても、残された時間は多くない。
突然の成功に戸惑いながら、老体に鞭打ち、世界を回る様子を見ていると、商業主義に踊らされる、社会主義国の彼らが気の毒に思えてくる。
それでも、ミュージシャンとしては、幸せでもあったのだろう。困惑しつつも、ステージでは本当に楽しそうな顔をしていた。
それでは、本作の評価をしよう。
主観的には★4.5、ツレはつまらなかったようなので、客観的には★3というところか。
おまけ。
ワールドツアーのラストは、ハバナの「カール・マルクス劇場」だった。さすが。
おまけその2
予測変換でポチポチやってたら、ブエナビスタソシアルクラブアディダスになってた。三重線で訂正いたしまふ。(修正済)
社会の歪みと女子の悩み
毎年、この季節になると女子が気にすることといえば、脇の毛である。アンダーアームヘアー。第二次性徴で生えてくるアレ。
チクチクの脇毛ちゃんたちをカミソリでジョリジョリやったり、毛抜きで「痛っ」と悶えたり、はたまたドラッグストアの除毛コーナーをうろついたりしていると、頭をよぎるのは永久脱毛である。幼気な毛根をレーザーで焼き殺す文明の利器!
昔は地獄の痛みと言われたそれも、近年は「輪ゴムでバチーン」程度の痛みであると聞く。
毎年、ネットで値段を調べては、皮膚科に行こうかどうしようか、と考えている。
しかし、どうしても踏み切れない。
永久というからには、もう一生、生えてこないのでしょう?やっぱり欲しいと思っても、再び生やすことはできないのでしょう?
本当に後悔しないだろうか。
例えば、フサフサの脇毛がブームになることは本当にありえないのだろうか。
ノースリーブのブラウスからの脇毛チラ見せ。白い肌と黒い脇毛とのコントラストがたまらなくセクシー。
あるいは、青やピンクのカラフル脇毛や、きっちり編み込まれたドレッド脇毛。見えないところのお洒落である。
えー、アナタ脇毛ないの?遅れてるー!
これらが本当にないと言えるか?
例えば10年前、再び太眉の時代が来ることなど予想できたか?私はずっと細眉が続くと信じていたぞ。
さらに言えば、脇毛が生えていない人が迫害されるような世の中は、絶対に訪れないと言えるだろうか?
かつて、猫を飼っているだけで魔女と決めつけられ、眼鏡をかけているだけで知識人階級と見なされ、迫害された人々がいたことを忘れてはならない。
脇毛が生えていないために、差別対象になることがないとも限らない。
ここで唐突に私の妄想が始まるのだが。
20XX年、広がるモテ格差(笑)や異常な少子高齢化により、社会の歪みが増大し、ピラミッドの底辺にいる人々の一部が過激派と化す。そして「娼婦狩り」のムーヴメントを生み出すのである。
「快楽のための性行為は堕落だ!皆に子孫を残す権利を!」というスローガンの下、「娼婦」と見なした女子を連行し、拷問の後、処刑する。反対する人もまた「娼婦」や「娼館の関係者」として連行されるため、皆じっと見守るだけだ。自分と家族を守るために、密告する人まで現れる。「娼婦狩り」は、じわりじわりと広がっていく。
彼らの言う「娼婦」の特徴にはいくつかあるが、決定的なものとして「脇毛が生えない」というものがある。
「二次性徴を迎えた成人女子に必ず生えるはずの脇毛がないということは、永久脱毛したために他ならない。そんな愚かしいことは男に媚を売る娼婦以外にする人はいない!」というのが彼らの言い分だ。言いがかりでしかないが、今や正義は彼らにあり。誰も反論できない。
そうして、本物の娼婦だけでなく、もともと体毛の薄い人や、薬の副作用で脇毛がなくなった人々、単に永久脱毛していただけの人々まで迫害されるのである。
あの時、なぜ永久脱毛などしてしまったのだろう。なぜ皮膚科に足を踏み入れてしまったのだろう。
カミソリでジョリジョリやったり、毛抜きで「痛っ」と悶えたり、はたまたドラッグストアの除毛コーナーをうろついたりしているだけでも十分幸せだったのに。
永久脱毛で脇毛を失った女は、愛する人にそう言い残して連れ去られていくのである。
そして人類は、また愚かな過ちを繰り返す。
ウラジオストク(郵便局編)
海外に旅行に行ったら、必ず自分宛に絵はがきを送っている。現地の人に混じって窓口に並んで切手を買ったり、ポストに投函したりすると、まるでそこで生活しているかのような気分に浸れるのだ。お国柄は、日常的なところに現れる。
そんな訳で、ウラジオストクでも、雑貨屋で絵はがきを買い求め、ホテルでこりこり書きつけ、郵便局に向かった。
こちらがその絵はがき。下のロシア語は「おめでとう」という意味らしい。特にめでたいこともないが(脳みそ以外は)、不思議の国のウラジオストクでささやかな冒険、特別な日ではある。なんでもない日おめでとう。
郵便局は、ウラジオストクのほぼ向かいにある。すぐ近くには、スーパーマーケットやレーニン像があったりする。
エータ、レーニン像。
ソ連崩壊から30年も経って、まだ像が残っていることも驚きだが、いつ行っても中国人観光客で賑わっているのがなかなかに趣深い。彼らはレーニンと同じポーズで集合写真を撮ったり、満面の笑みで自撮りしたり、とても満足そうであった。世界人民大団結万歳。
外国で見る中国人は、どの国であろうと、何やら楽しそうである。
そのような共産主義的喧騒を通り抜け、郵便局内に入ると、薄暗く、しんと静まり返っていた。
窓口と思われるところで、職員の女性に絵はがきを見せると、階段を指差し、静かな口調で何やら説明してくれた。この窓口ではないようだ。何を言われたのかはさっぱりわからなかったが、指示された階段を上ると、そこにも窓口が並んでいた。しかし、貯金窓口のような雰囲気である。
とりあえず、近くの窓口で絵はがきを見せると、「ニェット」と首を振り、右の方を指差し「あちらへ行け」と言う。そして「あちら」の窓口に行くと今度は「下は行け」と言われる。たらい回しである。
仕方なく、再び1階に下りると、先ほどは気づかなかった場所にドアがあった。まるでRPGである。
重い扉を恐る恐る開くと、そこにも窓口があった。中には職員の女性が3人、一斉に私を見つめてきた。
「ズドラーストビチェ」と挨拶し、一番仕事ができそうな女性に絵はがきを見せると、彼女はチラと一瞥した後、早口で何かをピシャリと言った。女性の仕草から「切手を買っていらっしゃい」と言われたと考え、「グジェ(どこ)?」と聞くと、ドアの外を指差した。
言われた通り、ドアの外に出たが、そこには最初に向かった窓口と、売店があるだけである。
売店は郵便局とは関係なさそうに見えたが、他に選択肢はない、レジに座っていた中年女性に絵はがきを見せると、何かを了解したように頷いた。ようやく正解にたどり着いたらしい。料金を調べて45ルーブル分の切手を貼ってくれた。
切手の貼られた絵はがきを持って、先ほどのドアを開けると、今度は私の後ろあたりを指差し、何やら言っている。
振り返ると、そこには青色の箱があり、上面にはがきが入る程度のスリットがあった。
ポストだろうか。窓口の女性が何を言っているのか全くわからないが、えいままよ、絵はがきを青い箱に放り込んだ。
「届かないかもしれないな」と諦めていたが、絵はがきは2週間後にちゃんと届いた。
たらい回しにされ、何度も「ニェット」と言われたが、それがむしろ異国の醍醐味というか、やはりロシアは妙にクセになる魅力がある。
これだから、外国から絵はがきを送るのはやめられない!